『百光|BYAKKO』について詳しく見る

SAKE HUNDRED、その挑戦と革新の行方

100年先を、照らす光——。

厳しい状況の続く日本酒産業において、“光照らす存在であるように”という祈りを込めて。私たちはフラッグシップとなる日本酒に『百光』と名を付けました。その『百光』が、2018年のリリース以来初めて商品を原料米から見直し、新たな『百光』として生まれ変わります。

『百光』をはじめ、SAKE HUNDREDがどのような志で日本酒産業を変革し、どのような道を歩もうとしているのか。ブランドにとってひとつの節目となる機会に、元エルメスパリ本社副社長を務めた社外取締役・齋藤峰明さんと、ブランドオーナー生駒龍史の対談を通じて、世界における日本酒の価値と、SAKE HUNDREDが歩む未来を考えます。

再評価される“日本文化”の本質

— 世界が注目する日本のライフスタイル

生駒:本日は、SAKE HUNDREDの未来、そして日本酒の未来について、齋藤さんとともにお話したいと思います。まずは、10代の頃からパリ第一(ソルボンヌ)大学へ進学し、エルメスパリ本社副社長に至るまで長らくフランスで活躍され、現在もフランスに住んでいらっしゃる齋藤さんからして、世界では日本酒や日本文化ってどのように見えているんでしょうか。

齋藤日本が西洋と関わり始めてから、日本の文化はたびたび紹介されてきました。ただ、西洋からするとそれは「異文化の面白さ」であって、自分たちのライフスタイルにその価値観を取り入れようという動きではありませんでした。

ですが、ここ30年で海外からの見方が大きく変わったように思います。

生駒どのように変わったのでしょうか?

齋藤例えば、日本食への関心。欧米で健康志向が広がるなか、長寿国である日本の食生活はとても注目されています。また、環境問題への意識もあります。温暖化などを通じ「自然を大切にする価値」が重視され始めました。日本には「人も自然の一部」という考えがあり、衣食住すべてに自然との共生が根付いています。そのようなサステナブルな価値観が、欧米にも入り始めています。


生駒欧米の新しい価値観と、本来の日本文化がマッチした、と。

齋藤そうです。以前は物珍しい目で見られていた日本文化ですが、現代では「いま大事にすべき本質」として受け入れられて、取り入れるべき価値観に変わった。

ただ、残念なことに日本人の多くは欧米的なライフスタイルを追い、グローバルで見た自分たちの価値にまだ気づいていない、というのが実情だと思います。

生駒日本人自身ではなく、海外の方に発見されたからこそ、その価値が世界で信頼されているんでしょうね。トレンドやブームでやっているのではなく、自然との共生も健康的な食生活も、日本人にとってはあたりまえのように日常に根付いているものなんですよね。

— 数百年の伝統を受け継ぎ、次代を見据える酒蔵

齋藤日本酒はただのお酒ではなくて、ひとつの“文化”とも捉えられるじゃないですか。その周辺には、まだまだ日本本来の姿が残っていると思いますが、いかがですか。

生駒サスティナビリティの文脈でいうと、京都で400年近い歴史をもつ酒蔵の当主のお話が印象的でした。

「自分だけがいい思いをしたいなら、高い時計や高い車を買えばいい。だけど、それを見た周りの人は自分たちの子供に何を言うだろうか。自分が背負う看板を子や孫に残したいなら、自分だけの生き方を考えるな」とおっしゃっていて。

つまり、目先の利益や個人的な享楽よりも、次の世代にバトンを渡すための長期的な視点を大事にしていたわけです。

こうした考え方の中に日本独自の価値観、サステナブルな側面が残っているように思います。

齋藤面白いですね。元々、ほとんどの企業は家業からはじまっていますよね。家族で事業を興して、それを次の世代に渡していく。だからこそ昔は、家柄としての品格や信用が大切にされていました。単なる金儲けに走れば、信頼を失って次の世代へ影響を及ぼしてしまうからです。

余談ですが、世界的に見て100年以上続く企業の半分が、日本の企業なんだそうです。その中で酒蔵は、昔から“次の世代につなぐ”ことを重視してきたんでしょうね。

生駒そう思います。ところが、社会の変化が急速に進んでいる現代では、“100年先の意思決定”ばかりをしていては、生き残るのが難しくなってきています。長期的な視野で多くの酒蔵が何百年も続いてきたのは事実ですが、それがいま酒蔵が苦戦する理由にもなってしまっているんです。

だからこそ、短期的な視点でも動ける私たち日本酒ベンチャーのような存在が必要だと感じています。リスクを取って、新しい市場をつくっていくような動きができますから。

エルメスの教訓と、日本酒が直面する壁

— エルメスが社会の変化に対応できた理由

齋藤家業としての酒蔵とは異なる視点をもった、第三者的な立ち位置の企業が“伝統の内側”に変革を起こしていくというのは、面白いですよね。

時代に合わせた変革の話として、エルメスの例を挙げますね。

エルメスはもともと馬具商として1837年に創業し、パリの中心に工房を建てました。ところが19世紀末になると、お得意さまだった貴族やブルジョア層のお客様が「もう馬に乗らない」と言い始めたんです。職人が驚いて理由を尋ねると、「車を買うんだ」と。

そこで危機を感じたことで、エルメスは馬具作りの技術を携えて、バッグなど身の回りのものをつくる方向に業態転換をしたんです。

この話を聞くと、社会の変化にいち早く気づいて対応したエルメスのすごさと同時に、エルメスだけではその変化には気づけなかった、ということを痛感します。

生駒:社会の変化を伝えてくれる、お客様の存在も大事だったんですね。

齋藤:その通りです。一方で、ほとんどの馬具商は車の登場と同時に姿を消していきました。やはり代々続いてきた家業を急に業態転換するのは、難しいことなんですよ。

厳しいようだけど、酒蔵がいかに100年先のことを考えていても、同じことを続けていくだけでは、残っていくのは難しいと思います。

でも、エルメスもそうだったように、自分たちだけで変革を起こすのは難しい。その時に、「変化しなければ生き残れない」と気づかせてくれる“外の声”はとても大きいんです。

そういう意味では、生駒さん自身が“酒蔵の人”ではないからこそ、冷静に日本酒の価値やポテンシャルが見えるし、貢献できることがあるのだろうと思います。

生駒私が課題に感じているのは、日本酒産業全体が前を向けていないことなんです。局地的に見れば伸びている酒蔵や地域もありますが、全体としては1973年のピークを皮切りに、昨年比を割り続けています。そのせいか、いかに減らさないようにするかを考えるばかりで、伸ばそう、成長しようというムードを感じづらいことが多いです。

齋藤成長すると思っている人と、厳しいと思っている人では動き方も、目標も違いますからね。

生駒もちろん、多くの酒蔵では酒造りも販売も一生懸命、真摯に取り組んでいるんです。いいお酒を造る、伝統をつないでいくという意識はあるけど、「日本酒って伸びますか?」と問われると「厳しいかも」と答えてしまう。ここが非常に難しいところです。

— 可能性と希望の象徴になる

齋藤そうした時代を経て私がいま思うのは、人種や文化、宗教、言葉が違おうと、みんな幸せになろうと生きているのは世界共通。豊かな人生を送るためには、みんな良いものを取り入れたいわけです。そのときに、お酒って人生の精神的な充足感を味わうために、大事なもののひとつじゃないですか。

世界が日本の文化に注目し始めているいま、日本酒も同様に、豊かな人生の一部として世界に広がるチャンスが大いにあります。だけど、それは待っているだけではやってこない。その状況を先陣を切って打開しようとするSAKE HUNDREDの志に、私はすごく共感したんですよ。

生駒齋藤さんのおっしゃるとおり、まさにSAKE HUNDREDは、日本酒に関わる人に新しい景色を見せるような存在になりたいと考えているんです。

「日本酒の、可能性と希望の象徴になる」

くさい言葉に聞こえたり、「舐めるなよ」と思われたりするかもしれないけど、私たちがそこになる覚悟ははっきりとあります。

SAKE HUNDREDのイノベーションと価値の再創造

—「多様な価値」を実現するために

齋藤:生駒さんご自身は日本酒産業において、「SAKE HUNDREDがどんなイノベーションを起こしてきた」と感じていますか?

生駒:現時点でSAKE HUNDREDが「イノベーションを起こした」と言えるほどの立場ではありませんが、少なくとも日本酒に深く関わるスタートアップ企業として、「日本酒の価値を、より多様で幅広いものにする」という強い志をもって挑んでいます。

人に多様な価値観があるように、日本酒にも本来、多面的な価値が存在するはずです。

しかし歴史的にも日本酒の価格はなかなか上がらず、結果として品質や味わいの追求にコストをかけられず、味わいの幅が狭くなっているように思います。

だけど本来、3千円と3万円の日本酒では、かけられる原価も労力も、表現できるものもまったく違います。

SAKE HUNDREDが高価格帯で勝負し続けるのは、「価格」という縦軸を広げることが、結果的に「多様な価値」という横軸を広げることにつながるからです。

これが実現できなければ本当の意味で日本酒に多様性は生まれませんし、世界に出してもきっとどこかで競り負けてしまうと思います。

齋藤『百光』を飲むとね、まさしく「あぁ、日本酒ってこんなに豊かな味わいが表現できるお酒だったんだ」と感じますよね。

 いま生駒さんのおっしゃった多様な価値ということも含めて、私はSAKE HUNDREDが日本人にとって「気づき」を与えてくれる日本酒だと思っているんです。

日本酒の中には日本人の精神性や歴史、文化、技術が詰まっていて、これを単に「美味しい飲み物」として販売するだけではあまりにもったいない。その本来の価値を海外に伝える意義は大きいし、そこに寄与するSAKE HUNDREDという存在は、日本人にとっても日本酒への視点を一度リセットして、捉え直す機会にもなると思います。

生駒:そんな存在になれたら嬉しいですね。

“日本酒の未来”を照らすフロントランナーとして

齋藤:日本人はどうも自分たちの良さに気づきにくく、世界で評価されてからやっと「これっていいものだったんだ」と再認識することがよくあります。ですから、世界から注目されることで、日本人がもう一度、日本酒の良さを見直す機会になるんじゃないかと思いますね。

その舞台に立てるのはSAKE HUNDREDのような日本酒であり、その味わい、品質への追求が、日本酒そのものに大きく貢献するのではと感じています。

生駒だからこそ、品質を追い求めるという点は妥協してはいけないですよね。

人生のハイライトに登場するお酒。私はSAKE HUNDREDがそんな存在になれたらいいなと思っているんですよ。それも、日本だけでなく、世界中のアルコールを飲めるすべての方々に対して。

私たちのプロダクトが、お客様の幸福なひとときに寄り添い、そのコントラストをより鮮やかにする。幸せの背中を押すような、やさしく肯定するような、そんなお酒でありたいんです。

どうすればそうなれるのか知恵を絞る必要はありますが、自分自身「なんて素敵な仕事なんだろう」と思いながら打ち込めているのは、幸せなことかなと思います。

齋藤単に「ハイブランド」という大きな枠組みで捉えられるのではなく、一人一人にとって自分の人生の中で最高の瞬間に、隣にある日本酒になれたらいいですよね。

エルメスのプレタポルテにも、「着る人が一番、幸せになれる洋服を作る」という考え方があります。人に見せつけて優越感に浸るのではなく、自分だけの本当の充足感、満足感を味わおうと。例えば、ジャケットがあって、ポケットに手を入れると内側がなめし皮でできていて、その感触が自分だけ気持ちいい、とかね。

最近になって、そのような“見せつけること”ではなく“自分自身の充足”のためにあるラグジュアリーは「クワイエットラグジュアリー」と呼ばれるようになり、ラグジュアリービジネスで取り入れられるようになってきました。そんな光景を眺めていて、私たちはもう一度「本当に自分が大事にしたいもの」に戻る必要があるんじゃないかと思いました。

おもむろにお父さんが冷蔵庫からSAKE HUNDREDを出してきてね、「今日はこれを飲むぞ」と。そしたら家族がワクワクして、「何の記念日だったっけ?」と笑顔になる。

より本質的で、豊かな人生の時間を過ごすための自分たちだけの贅沢。SAKE HUNDREDが描くのは、これまでの日本酒では表現されてこなかった、そんなシーンなのかもしれませんね。

生駒:まさに、そんな未来を実現していきたいですね。

SAKE HUNDREDという存在は、そのフロントランナーでありたい。私たちの挑戦が、100年先の日本酒の未来を、明るく照らす光になれるんじゃないかと思っています。

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