類稀なる軌跡を辿った日本酒が示す、熟成酒の新たな可能性
氷温熟成と、フレンチオーク樽熟成。ふたつの熟成を組み合わせるという類を見ない方法で製造された『礼比』は、「日本酒の熟成には可能性が眠っている」と信じる強い熱意と、実直なまでに熟成と向かい合う造り手の姿勢から生まれました。
氷温熟成とは、言わばコールドスリープ。それゆえに、熟成の歩みも、味わいの変化もなだらか。13年間という途方もない歳月をかけて、繊細ながら複雑性ある味わいへと深まってゆくその様相は、日本酒のもつ神秘性を訴えかけ、同時に「時間がもつ価値とは」という問いも私たちに投げかけます。
ゆるやかな時の流れが見せる淡いレモンイエロー
『礼比』のアイデンティティ。それはまさしく、この日本酒が辿ってきた“過去”の中にあります。
熟成前の元となる酒は、累乗仕込み。「デザート日本酒」と呼ばれることもある、リッチでふくよかな甘味をたたえた累乗酒が氷点下の貯蔵庫に入り、静かな熟成が始まったのが13年前のこと。『礼比』の旅は、“氷温熟成”という方法から始まりを告げます。
日本酒と同じ醸造酒であり、熟成文化が発達しているワインの一般的な熟成の温度帯は12〜15℃。対して、『礼比』の熟成温度はマイナス5℃。当然ながら、0℃を下回る温度ではあらゆる分子の活動が沈静化するため、熟成のスピードは極めて遅くなります。通例、日本酒の熟成は、その変容の過程でメイラード反応を起こすため、醤油の尖った香ばしさにも似た香りを発します。しかし、『礼比』は氷温でゆっくりと熟成を進めることにより、その香り成分の発生が極端に抑えられ、華やかさを保ったまま熟成していきます。
それはすなわち、多くの熟成酒に見られる独特の重たさや酸化した香りが出ることなく、味わいと香りのコンテクストだけが深まってゆくことを意味します。
熟成酒というと、深遠な琥珀色をイメージされるかもしれません。ですが『礼比』の色合いは、水彩を思わせるほどの淡いレモンイエロー。これこそ、氷温熟成の証です。
そうして、零下5℃で熟成させること10年。ここで『礼比』はタランソー社製(*)のフレンチオーク樽に移し替えられ、さらに3年間氷温下での「樽熟成」を加え、唯一無二の個性をより確固たるものにしていきます。
*タランソー(Taransaud):フランスの老舗製樽メーカー
熟成を信じる意志が導いた到達点
「10年間氷温熟成させた日本酒を、フレンチオーク樽でさらに熟成させる」
この大胆な試みは、『礼比』の醸造パートナーである永井酒造の当主・永井則吉さんの考えによるものでした。
永井酒造は、群馬県利根郡川場村で六代にわたって営まれてきた酒蔵。「川場村」という地名が示す通り、武尊山からの湧水が流れる豊かな農村地域で、明治19年に初代当主がこの土地の水に惚れ込み、酒造りを始めます。
学生時代は建築家を志していた永井さんですが、蔵の建て替えで家業に携わったことをきっかけに、酒造りがもつ独自性を感じ、家督を継ぐことを決意。志したのは、永井さん自身が衝撃を受けたワイン「DRC モンラッシェ1998」に匹敵するような、世界に通用する酒造りでした。
当時、価格が数百円違うだけで「高くて売れない」と言われてしまう、日本酒に対する価値観に疑問を感じていた永井さん。「日本酒のポテンシャルはまだまだこんなものではないはず」と信じ、22歳で酒蔵に入って間もなく熟成酒の研究を始めます。当主であった父や杜氏から大反対に合いながらも「自分の初任給を担保にする」といって、熟成用のロットを確保しました。
研究を始めて最初の3年でわかったのは、ワインの熟成と同じ温度帯である15℃前後では「早くピークに到達しすぎてしまう」ということ。永井さんの目指す熟成のイメージとはかけ離れていました。
そこから何年もかけて、5℃刻みで温度帯を変え、熟成の試験を繰り返します。10℃、5℃、0℃。それでも納得のいく味わいにはならず、ついにその試みはマイナス5℃に至ります。
「0℃以上の温度での熟成は進行スピードが変わるだけで、味わいの変化の方向性は同じでした。ですが氷点下での熟成に限っては、モンラッシェに感じた繊細さと複雑性に近い味わいが現れ始めたんです」
温度違いの熟成を何度も試行し、10年かかって見えてきた氷温熟成の可能性。研究を重ねる中で、よりエレガントな味わいを求めて、氷温熟成させた日本酒を、さらに“氷温のまま樽熟成させる”という方法へとたどり着きました。
十数年もの年月をかけて氷温熟成させた日本酒を、樽に入れる。当然、味わいが馴染まず台無しになってしまうリスクもあります。それでも永井さんは、自分の感覚を信じて進めました。
熟成樽には、世界でも最高峰の樽メーカーのひとつとして知られるフランス・タランソー社製のフレンチオーク樽を用いています。ある日、永井酒造を訪れたタランソー社の重役から「こんな熟成をしているのは、世界にあなたしかいない」と驚かれたそうです。その後のテイスティングで味わいを絶賛され、自身の取り組みに確信を持ちます。
10年間の氷温熟成と、3年間の樽熟成。世界でも類を見ない熟成方法。その日本酒は、永井さんが長年表現したいと思い続けてきたDRC モンラッシェの世界観への扉を開けるような、奥深く複雑性をもつ味わいに仕上がりました。
日本酒の熟成の可能性について、永井さんはこう話します。
「熟成には、日本酒が世界に通用するポテンシャルがある。30年近く研究し続けてきたからこそ、はっきりと確信しています。熟成がもつ可能性は、まだまだこんなところがゴールではありません。その中でも『礼比』は間違いなく、ひとつのベンチマークになる日本酒です」
永井さんが信じ続ける“熟成のポテンシャル”。未来の日本酒のあり方を切り拓かんとするその強い想いは、志を同じくする私たちSAKE HUNDREDと共鳴し合い、折り重なって『礼比』に込められています。
『礼比』が示す、日本酒の神秘性
10年間の氷温熟成の中で、『礼比』の中では微弱な化学反応が起こり続け、少しずつ、しかし確かに、繊細さと複雑性を備えた味わいへと、内側から熟していきます。それに対して、氷温下でのフレンチオーク樽貯蔵の3年間は、外発的な熟成。樽材の表面からゆっくりと抽出される香りと旨みのエキスをその身になじませながら、無二とも呼べる『礼比』のアイデンティティを少しずつ花開かせていきます。
鼻を近づけた瞬間に感じる、ヴァニラやバターを思わせる妖艶なアロマ。華やかさと重厚感を同時に感じさせる、濃密な甘みと上品な酸味の幾層にも重なるグラデーション。そして過ぎ去ったあとに残る、心地よくエレガントな余韻。
歩んできたその軌跡をゆっくりと示すように。そして、「時間というものの価値」を飲む者に語りかけるように。13年という時間をかけた日本酒のみが到達できる地点。その景色に驚き、感動したのは何よりもまず私たち自身でした。
『礼比』は、熟成酒における新たな可能性を示すと同時に、その強烈な個性と類稀なる軌跡によって、もっと自由で、もっと多様な日本酒のあり方そのものを、私たちに示します。
日本酒にはいまだ開かれざる扉があり、その奥に私たちが知らない神秘に満ちた未知の世界が、眠っているのです。